ニジェール川はギニアにある山地から流れ出てニジェール盆地で大きく湾曲してギニア湾へ注ぐ。金の産地があり、肥沃な大地は古くから遠距離交易が行われ、巨大な王国が勃興した地域となった。この地域では紀元前3000年から2000年の間に植物の栽培が行われるようになったと見られており、ヤムイモやアブラヤシ、コーヒーなどが作られていた。それらの栽培や農業の生産が開始されることによって住民の定住が可能となった[28]。紀元前5世紀から2世紀にかけて、ナイジェリアの中央部にあるジョス高原において土偶で知られる初期鉄器文化であるノク文化が繁栄した。 タルガ(Taruga)とサムン・ドゥキヤ(Sumun Dukiya)の調査で、ノク時代のものである居住層が確認され、放射性炭素年代測定によって年代が確定した。 ノク文化の集落遺跡は、山頂のような場所で確認されることが多く、地表面のあちらこちらに長さ数百m以上に及ぶ花崗岩などを用いた集落を防御するための囲壁と思われる遺構が確認されている。このような遺構はノク文化においてすでに大規模な協同作業が行われていたことを示している。
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また、タルガやサムン・ドゥキヤのノク文化の居住層からは、土偶や土器のほかにノク人が鉄の生産を行っていたことを示す溶鉱炉跡の遺構が検出された。炉は、農具や矢と槍先に着ける刃物、尖頭器、腕輪も製作していたと思われる。このことは、農作業によって必須となる鉄製道具を製作する職人達が力を持つようになったことを示し、ノク文化の諸遺跡のほかには、ニジェールのド・デミなどで鉄の利用が確認されている。少なくとも紀元前5世紀には西アフリカでは鉄製道具を使用していたことがわかっており、アフリカ全体でも鉄生産が始まった他地域と並行するか最古の時期に属することが判明している。また、ノクのテラコッタは、後のイフェやベニンの青銅彫刻、イフェに並行してナイジェリア国内のギニア湾岸に興ったエシエの石彫、中南部アフリカのバンツー文化の彫刻にまで影響を与えたと考えられ、考古学や美術史で注目されている。
9世紀頃になると、ナイジェリア南東部、ニジェール川の三角州の付け根付近にあたるイボ=ウクゥにおいて青銅器製品を多量に伴うすばらしい王墓が造られた。10世紀~15世紀頃には、青銅製などのすばらしい彫刻で知られるイフェ王国と、ソープストーンの塑像で知られるエシエ文化が栄えた。
密林によって外部の文化から阻まれた南部と異なり、北部ではキャラバン交易を通じ北アフリカから物資や文化の伝播があり、イスラム教を受容した。チャド湖周辺には12世紀から13世紀ごろアフリカのキャラバン交易路の利益と軍事力でカネム・ボルヌ帝国が全盛を迎えた。この王家は19世紀まで続いた。この地域における最古の王国とされるのが8世紀のアラビアの史料に既にその存在が記されているガーナ王国で、地理学者アル・ヤクービーによって「ガーナという黄金の国の王は強力で、彼の権力の元に多くの王が属している」と述べている。ガーナ王国の首都はモーリタニアとマリの国境付近と考えられており、そのクンビ・サレー遺跡の規模からは1万人から2万人の住民が居住していたと思われる。ガーナ王国は交易を通してイスラム教の影響を強く受けるようになり、11世紀末にはほぼ王国全土に浸透したとされる。
13世紀中盤に入るとマリ王国がマンディンカ族によって作られた。こちらも早い段階からイスラム教を受け入れており、伝統的に王はアル・ムスルマーニと呼称されていた。1353年にこの地を訪れたイブン・バットゥータはマリ王国の様子について「王は絹布がしかれ、黄金の鳥が象られた日除けが設置された宮殿の中庭で謁見する。王の後には300人の武装した奴隷達が傅き、玉座に着くと太鼓や角笛が鳴り響く」などと記述されている。マリ王国は16世紀末にトゥアレグなどの北方民族の侵略を受け、17世紀ごろには滅亡していった。
ソンガイ王国は、ニジェール川東岸に漁猟や牧畜などで生計をたてていたソンガイ族が11世紀後半に建国したもので、長らくマリ王国の支配下にあった。15世紀前半のスンニ・マダウの時代にマリ帝国の首都ニアニを攻撃して大勝利をおさめ、24の奴隷部族を奪った。1464年にソンニ・アリ(スンニ・アリー)の治世と次代のアスキア・ムハンマド1世の治世に一気に勢力を拡大させ、西スーダンのほぼ全域を支配する空前の版図を築いた。その都市のひとつトンブクトゥーには北アフリカから多くの宗教指導者や学者が招かれ、学問の都市として名が知られるようになっている。しかし、16世紀にはいって岩塩鉱山の採掘権を巡りモロッコとの紛争が長引いて、16世紀末、王位継承争いで国土があれはて、鉄砲隊をもつ精強なモロッコ軍に直接攻撃を受けて滅亡した。
これらの3国はその版図の広さから、しばしば「帝国」と冠され、呼称される場合もある。
ニジェール川中流域10世紀ごろから城壁に囲まれた都市を中心とした小国家が複数成立し、ハウサ諸王国と呼ばれた。初期はそれぞれソンガイ王国の支配下にあったが、ソンガイ王国滅亡後はそれぞれが独自に活動をはじめることになる。
一方、14世紀にナイジェリア南部に興ったベニン王国は、交易のみならず、15世紀末に来航したポルトガル人から銃を取り入れ軍事力と王権を強化し、18世紀になるまで繁栄を誇った。イフェの彫刻とともに青銅製や象牙製の彫刻の雄品で知られ、後にヨーロッパに紹介されると、20世紀美術に多大な影響を与えることになり、美術史上も非常に注目されている地域である。
コンゴ川水界
コンゴ川水界
コンゴ川コンゴ川(旧称ザイール川)はアフリカ大陸の中央部をらせん状にまわり、大西洋に流れ込む大河で、15世紀頃よりコンゴ王国、ルバ王国、ルンダ王国などの文明を形成してきた。コンゴ王国は河口付近からアンゴラ近辺まで分布するサバンナを中心として形成された王国で、ルバ王国、ルンダ王国はコンゴ川の源流域に成立したサバンナの長距離交易を中心とする王国である。しかし、これらの王国が形成される以前、およびコンゴ川流域の熱帯雨林地帯で古くから活動していたとされる民族に関しては断片的な記録しか存在しておらず、およそ全ての歴史を語ることは現時点では不可能となっている。
当時のエジプト王朝の資料から、少なくとも5000年前の段階で狩猟系民族がこの地で活動をしていた事が判明しており、紀元1世紀頃までの長期にわたって、森林地帯の資源を独占的に利用していた。紀元1世紀頃、バントゥー語族の南下の影響によりこの地に大きな変化が起こった。ナイジェリアとカメルーンの国境周辺にいた彼らがどうしてこの地へやってきたのかは未だよくわかっていないが、鉄器を携え、農耕技術を伝えたバントゥー語族と、現地の狩猟を生業とする民族はうまく融合しあい、その数を増加させていった。5世紀に入ると東南アジアよりバナナが伝えらる。バナナはその生産性効率の良さから瞬く間にそれまで作られていたヤムイモやアブラヤシに取って代わって基幹農作物の位置を確立し、この地に住む住民の生活に大きな変革を齎した[30]。消費量を大きく上回る生産が可能となり、やがてそれはコンゴ川沿岸に居住する漁撈民族との物々交換という接触に繋がっていった。
こうして10世紀を迎える頃までには陸の民族と川の民族の広域な文化ネットワークが確立し、コンゴ川周辺に文化的な一体性を作り出した[31]。これらの下地が15世紀の王国の設立に繋がっていったとされる。
コンゴ王国を示す地図14世紀後半に鍛冶師ヌティヌ・ウェネによって設立されたとされるコンゴ王国は1482年にポルトガルの宣教師によって「紹介」がなされる。当初は対等の相互交流的な関係を持ち、1490年、当時のマニ・コンゴ(王)であったンジンガ・ムベンバはキリスト教へ改宗し、ドン・アフォンソという洗礼名も授かっている。
最盛期のアフォンソ王の時代には王国の版図は東西320キロ、南北480キロという広大な領地を持ち、中央集権的な制度を携えていた。支配下地域はそれぞれいくつかの州に分けられ、それぞれの州に統治者が存在し、統治者は貢物としてヤシ酒、果物、ウシ、象牙などをマニ・コンゴへ贈っていたようであった。
一方コンゴ川源流域においても1500年ごろにはルバ・ルンダの両王国が形成されていた。コロンゴという人物によって建国されたルバ王国は、首長を頂点として複数のクラン(父系民族)と奴隷が合体する社会構成をとっており、複数の首長の共同体として村を形成していた。彼らは農業・漁業を生業とし、さらには鉄・銅・塩などを交易品として東アフリカのインド洋沿岸地域民族と通商していたようである。また、チビンダ・イルンガによって建国されたルンダ王国もルバ王国と同様の形態を持っており、アフリカ東部やアンゴラなどと交易をしながら生活していた。特に銅が多く産出し、主要な交易品となったようである。
キャッサバポルトガルとの接触までの長い期間、大陸内部の閉じた世界で完結していたコンゴ川水界は、それまでの水産資源の産出、地域住民交流の為の交通手段に加え、新たに未知の大陸から来る産物を川にさかのぼって運搬する西の窓口として機能するようになった。その窓口より齎された新しい作物キャッサバはバナナよりもさらに生産性・生育性が高い作物で、バナナが広がった時と同様、各地の農業形態に大きな変革を起こした。その他ヨーロッパからは銃、火薬、衣服などの工業製品や銅細工、鉛細工などの工芸品、肉や魚の燻製などが齎され、生活水準が飛躍的に向上している。一方コンゴ王国からは木材や土器、象牙、奴隷などが交易品として取引が行われていた。
コンゴ川水界における「奴隷」は初期の頃は地域間の戦争や犯罪者など、一時的に捕虜にした者を指していたようであったが、それを「労働資源」として交易品に加える事が15世紀初期の交易段階で既に行われていた。やがて奴隷の需要に対し供給が追いつかなくなるにつれ、交易当初のヨーロッパとコンゴの対等な関係は徐々に失われていき、強制的に奴隷を求めるようになり後述する奴隷社会へと繋がっていった。